2024年7月3日に刷新される新一万円札の顔に選ばれた渋沢栄一ですが「渋沢栄一は何した人なのだろうか」「どのような歴史があるのか」と疑問に思う人は多いでしょう。
渋沢栄一は日本の実業界と社会福祉の発展に多大な貢献をした偉人であり、その人柄から多くの人に愛された人でした。本記事では渋沢栄一の功績や新一万円の顔に選ばれた理由を解説します。
目次
渋沢栄一は、江戸時代後期の1840年に生まれ、昭和時代初期の1931年に91歳で亡くなった実業家です。「日本資本主義の父」「実業界の父」「金融の父」と呼ばれる渋沢栄一は、生涯に約480もの企業の設立・運営に携わりました。また、企業経営だけでなく、約600の社会事業にも携わり、幅広い分野でも活躍しました。
渋沢栄一は、日本の近代化に大きく貢献した人物の一人です。渋沢栄一が設立・運営に関わった企業が、現代の日本経済の基盤を築いたといっても過言ではありません。
社会福祉の発展にも大きな影響を与え、実業界と社会事業の両面で日本の近代化を推進した、日本近代史に欠かせない人物だと言えるでしょう。
渋沢栄一は27歳のときにパリ万博に派遣され、近代化された都市の様子に感銘を受けました。パリ滞在中、渋沢栄一は経済の仕組みを学び、日本でも同じような仕組みを作ることを決意します。
帰国後、渋沢栄一は日本に株式会社の仕組みを導入するため、日本で初めての銀行を設立しました。渋沢栄一は、日本経済の発展には産業への融資が不可欠だと考えたのです。
当時の日本は近代化の途上にあり、産業の育成が急務でした。そのためには、企業が必要な資金を調達できる金融システムの構築が必要だったのです。渋沢栄一が設立した銀行は企業に融資を行うことで、日本の産業発展を支えました。渋沢栄一の功績により、近代的な金融システムが日本に根付き、株式会社の仕組みが広まっていきました。
こうした渋沢栄一の取り組みは日本の資本主義の礎を築き、その功績が評価され「日本資本主義の父」、「日本近代の父」などと呼ばれるようになったのです。
渋沢栄一は、20代後半の1869年に株式会社の前身とされる「商法会所」を設立し、実業界での活動をスタートさせます。その後明治政府に入り様々な政策に携わりましたが、1873年に政府を去り、同年に第一国立銀行(現:みずほ銀行)を創設しました。
渋沢栄一は、生涯で約500の企業設立に関わっています。具体的には、東京海上火災保険、東京ガス、JR東日本、日本経済新聞社、東京電力など、日本の主要企業の設立・運営に携わりました。これらの企業は、現在でも日本経済を支える重要な役割を果たしています。
また、渋沢栄一は企業経営だけでなく、日本赤十字社、日本女子大学、早稲田大学など600もの社会事業にも関わり、社会福祉の発展にも尽力しました。さらに、身寄りのない子どもや病気で就業が困難な人を収容する養育院(現:東京都健康長寿医療センター)の院長を60年間務め、社会的支援にも力を注ぎました。
1909年、70歳で財界を引退した後も渋沢栄一は日中関係・日米関係の改善のために民間外交に尽力。その功績が認められ、1926年と1927年の二度にわたりノーベル平和賞候補になりました。
このように、渋沢栄一は日本の実業界と社会福祉の発展に多大な貢献を果たしました。その功績から、「実業界の父」と呼ばれ、現代に至るまで日本の経済・社会に大きな影響を与え続けています。
渋沢栄一は、1873年7月20日、日本で初めての銀行である「第一国立銀行」を現在の東京都中央区日本橋兜町に設立しました。この銀行は、日本初の株式会社とも言われ、現在の「みずほ銀行」の前身にあたります。
「第一国立銀行」は、当時の国立銀行条例に基づいて設立された民間銀行です。渋沢栄一は、この条例を活用し、民間主導で近代的な銀行を設立することで、日本経済の発展に大きく貢献しました。
「第一国立銀行」の設立は、渋沢栄一の先見性と行動力が日本の金融システム近代化の扉を開いた歴史的瞬間でした。その後、渋沢栄一が設立した「第一国立銀行」は日本の金融システムの基盤となり、日本経済の発展を支える重要な役割を果たしたのです。
渋沢栄一は、1872年に公布された「国立銀行条例」の起草を担当し、日本の銀行制度の基礎を築きました。また、東北地方の開発にも力を注ぎ、特に宮城県では地元に基盤を置く銀行の設立に尽力しています。
当時、宮城県には地元銀行がなく、第一国立銀行と三井銀行の出張所があるのみでした。そのような中、全国的に国立銀行設立のブームが広がり、宮城県の有志も第七十七国立銀行の設立を申請したのです。
渋沢栄一は、第七十七国立銀行の設立に直接関与し、「最も直接の伝習と周旋により成立せる銀行」と評価し、第一国立銀行の宮城県での業務を第七十七国立銀行に引き継ぎました。渋沢栄一は仕事上の助言や出資だけでなく、優秀な人材を第一国立銀行から派遣するなど、第七十七国立銀行の創業を多方面から支援していたのです。
第七十七国立銀行は、1878年に仙台を本社として開業しました。渋沢栄一は第七十七国立銀行の相談役に就任し、開業後も深く関わり続けています。
また、東北本線の建設や野蒜築港などの計画に携わるとともに、東北振興会の筆頭メンバーとしてさまざまな社会事業に貢献。東北地方の発展にも尽力しました。
1917年には東北振興会会長として東北六県を巡回し、仙台での講演では七十七銀行との縁に触れ、「銀行の発展は実業の隆盛があってこそ」と自らの考えを語っています。
第七十七国立銀行は後に七十七銀行へ名称を変更しましたが、企業理念「行是」には「銀行の発展は地域社会の繁栄とともに」との一文が掲げられており、渋沢栄一の思想が受け継がれているのです。
渋沢栄一は、日本の近代化と経済発展に多大な貢献を果たした偉人ですが、その功績だけでなく、経営理念と人柄も注目されています。
渋沢栄一の「論語と算盤」という理念は、道徳とビジネスの調和を説いており、現代の企業にも通じる考え方です。
また、渋沢栄一は、その高潔な人格と温かな心で、多くの人々から尊敬と信頼を集めました。ここでは、渋沢栄一の経営理念「論語と算盤」と、人柄について解説します。
渋沢栄一の経営理念は「論語と算盤」です。この理念は、道徳や倫理を表す「論語」と、経済・ビジネスを意味する「算盤」を調和させることの重要性を説いており、1916年には書籍としても出版されました。
渋沢栄一がこの理念を唱えるきっかけとなったのは、1902年の欧米視察中にイギリスから「日本の商人は不正ばかりする」と苦情を受けたことがきっかけです。この経験から、渋沢栄一は利益と社会のために、道徳とビジネスを調和させることが必要だと考えるようになりました。
近年、リーマンショックを機に資本主義への反省が高まり、企業の社会的責任(CSR)が問われるようになりました。こうした流れの中で、渋沢栄一の「論語と算盤」の考えが再評価されています。
実際、2019年にはアメリカの経営者協会が、株主利益のためだけでなく、社会のための経営をすると宣言しました。一方で渋沢栄一は、この考えを100年以上前からこの考えを提唱し、実行に移していたのです。
「論語と算盤」の書籍は、人間力を高めるための指針として多くの経営者や著名人に読まれています。渋沢栄一は様々な分野で大きな功績を残し「日本の近代の父」と呼ぶにふさわしい人物といえるでしょう。
1931年11月11日、渋沢栄一は91年の生涯を閉じました。渋沢栄一の葬儀には、多くの人々が集まり、その人柄と功績を偲んだのです。
斎場に向かう車の列は100台にも及び、葬列の沿道には30,000人もの参列者が集結しました。この事実は、渋沢栄一という人物が生前いかに多くの人々から尊敬され、信頼されていたかを如実に示しています。
渋沢栄一は、単なる実業家というだけでなく、人々の心に深く根ざした存在でした。渋沢栄一の偉大さは、業績だけでなく、その人柄や周囲への影響力にも表れているといえるでしょう。
渋沢栄一は、日本の近代化に大きく貢献しただけでなく、その高潔な人格と温かな心で、多くの人々から尊敬と信頼を集めた稀有な存在だったといえます。
出典:国立印刷局「新しい日本銀行券特設サイト|新しい一万円札について」
渋沢栄一は、1963年に千円札紙幣の肖像の最終候補に残るほど、紙幣の顔として相応しい人物とされていました。当時は伊藤博文と渋沢栄一の2人が最終候補に残りましたが、偽造防止の観点から、髭の豊かな人物が好ましいとされていたため、「立派なヒゲ」があった伊藤博文に決まりました。
しかし、近年では偽造防止技術が大きく進歩したことから、肖像の選定基準も変化しています。今回の新一万円札の肖像選定では、渋沢栄一の業績や人物像が再評価され、紙幣の顔にふさわしい人物として選ばれました。
七十七銀行の「金融資料館」では、渋沢栄一の肖像が印刷された幻の千円札を見ることができます。この資料館は、七十七銀行の創業120周年を記念して、平成10年12月9日に開設されました。
渋沢栄一は、1963年に千円札紙幣の肖像の最終候補に残りましたが、最終的には伊藤博文が選ばれました。しかし、七十七銀行では、渋沢栄一と深いかかわりがあることから、「試作図案」として渋沢栄一の千円札を20年以上前から展示しています。
この展示は、渋沢栄一と七十七銀行の深い絆を物語る貴重な資料であり、渋沢栄一の功績を伝える上でも重要な意味を持っているといえるでしょう。
新一万円札の肖像に選ばれ、改めて注目を集めている渋沢栄一。経済活動と社会貢献を両立させ、「論語と算盤」の理念を実践した実業家として、日本の近代化と経済発展に多大な貢献を果たした人物です。
経済発展だけではなく、高潔な人格と温かな心で多くの人々から尊敬と信頼を集めました。渋沢栄一を知れば知るほど新一万円札の肖像にふさわしい人物だといえるのではないでしょうか。
2024年7月より新一万円札の顔になることで、彼の思想や哲学が現代に通じるものであることが再認識され、今後のビジネスや社会のあり方に影響を与えることが期待されています。渋沢栄一の生き方は、現代社会に生きる我々に多くの示唆を与えてくれる、まさに時代を超えた存在なのです。
【七十七銀行 関連ページ】
※この記事は2024年4月現在の情報を基に作成しています。
今後変更されることもありますので、ご留意ください。