七十七銀行:金融資料館 The The 77BANK CYBER CURRENCY and BANKING MUSEUM


日本の近代資本主義の父・渋沢栄一と七十七銀行

渋沢栄一は、1872(明治5)年に公布されたわが国最初の銀行法規(ほうき)である「国立(こくりつ)銀行条例」の起草(きそう)を担当しました。また、大蔵省に入るきっかけをつくった伊達宗城(だてむねなり)を通して東北地方に強い関心をもち、東北地方の開発にも力を注ぎました。
その頃、宮城県には地元に基盤(きばん)をおく銀行は、ひとつもありませんでした。1873(明治6)年から第一国立銀行が、仙台と石巻(いしのまき)に出張所を開設し、三井銀行も宮城出張所を開設しているだけでした。これらの出張所が、県内の産物の現金化や納税業務(のうぜいぎょうむ)を行っていました。
しかし、その後全国的に国立銀行設立のブームが広がっていたこともあって、宮城県をはじめ東北各県の有志(ゆうし)が一斉(いっせい)に銀行設立を申し出ました。そして、第七十七国立銀行設立の申請も出されました。
こうした背景(はいけい)があって、渋沢栄一は第七十七国立銀行設立に尽力し、「最も直接の伝習と周旋(しゅうぜん)により成立せる銀行」とし、第一国立銀行の宮城県における業務を第七十七国立銀行へ譲りました。また、仕事上の助言や出資だけでなく、遠藤敬止(えんどうけいし)(第二代・四代頭取)、大野清敬(おおのせいけい)(第五代頭取)など得難い人材を第一国立銀行より派遣し、第七十七国立銀行の草創に協力しました。
 
渋沢栄一(しぶさわえいいち)
1840(天保11)年〜1931(昭和6)年

武蔵国榛沢郡(現在の埼玉県大里郡)生まれ。幕末から明治・大正・昭和という激動の時代を生きた実業家です。14歳からすでに商才を発揮しはじめ、25歳の頃、東京に出て一橋家に仕えます。やがて、幕府の役人として、徳川15代将軍慶喜の弟、徳川昭武に従ってヨーロッパに留学します。そして、産業革命後の近代文明にふれ資本主義経済などのしくみを学びました。時代が明治に変わると、大蔵省で財政や金融制度の整備にあたり、退官後、実業界で活躍します。まず第一国立銀行の創設をはじめ、多くの銀行の設立を指導します。第七十七国立銀行の設立のときにも、助言と出資をしています。また、東北本線の建設や野蒜築港などの計画にも係わるとともに、東北の産業振興をめざす東北振興会の筆頭メンバーにもなり、さまざまな社会事業に貢献しました。

伊達宗城(だてむねなり)
1817(文化14)年〜1892(明治25)年

旗本山口直勝の次男で、伊予宇和島藩主伊達宗紀の養子となり、 1844(弘化1)年宇和島藩十万石の藩主となりました。
「幕末の四賢侯」の一人に称され、新政府の初代大蔵卿に任命されました。

遠藤敬止(えんどうけいし)
1849(嘉永2)年〜1904(明治37)年

七十七銀行第二代・四代頭取。
元会津藩士。慶応義塾に学び、大蔵省銀行事務講習所の講師となりました。後に渋沢栄一に見出されて第一国立銀行勤務後、第七十七国立銀行頭取となりました。仙台商業会議所会頭ほか、会津銀行設立や学校の創立など多くの事業を支援しました。1890(明治23)年、旧会津藩主松平家が明治政府より鶴ヶ城跡地の払い下げを受けた際、私財を出し松平家に献納しました。







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